最新 追記

【小波の京女日記】


2013年02月08日 畏友,室井和男さんの著書2冊. [長年日記]

_ バビロニアの数学

室井和男著2冊

室井さんはかつて仙台の予備校で教えていた時の同僚で,東北大学理学部物理学科を出て,市内の予備校で数学を教えていた.おたがい若い時に同じ予備校で教え始め,別の予備校にも同じ年に移った.最初の予備校では深夜勤務手当の不払いがあって,組合を作って経営者に迫ったこともある.こちらは少し年長だったので委員長にされ,なんとか不払い分を払わせて冬のボーナスが倍になった思い出もなつかしい.

そんなわけでたまには一緒に飲むこともあったが,彼は非常に寡黙な人物で,しかしじっと深く考えるところのある人だった.その後こちらは大学に戻って研究者となり,彼はずっと予備校で教えていて,連絡も疎遠になった.

_ 京都の書店で

それから20年後,京都に移ってしばらくしたある日,河原町の丸善の数学書の本棚を何気なく眺めていたら『バビロニアの数学』と書かれた本の背表紙を見つけた.なんとなく気になって手にとってみたら,粘土板に刻まれた楔形文字と測量図のような挿し絵が描かれて,古代バビロニアの文書を解読してその数学的な内容を解明したという,おどろくべき労作.東大出版会から打された本格的な研究書ということで,一にも二にもなく買うことにした.

そのとき著者の室井和男という名前が旧知の室井さんと同じなので,同姓同名の人がいるものだと思って奥付を見たら,著者紹介に「現在,河合塾文理専任講師」とある.驚いたの何の.あの室井さんがこんなすごい仕事をしていたのかと,一瞬にして自分ののんべんだらりの来し方が恥ずかしくなるほどに,感じ入ってしまった.

その日のうちに彼の勤務先に電話して自宅の電話を教えてもらい,夜になって電話をかけてみた.「いやあ,恥ずかしいですわ」と聞き慣れた声でぼそぼそといろいろなことを話してくれた.

_ バビロニア研究者の誕生

彼が,古代バビロニアの文書を解読するなどという,常人には想像もつかない研究をどのようにして始めるに至ったかは,本の解説を執筆したこの道の第一人者,矢野道雄の文章につまびらかにされている.「学問の継承と発展」と題された7ページにおよぶ長大な記述のほとんどを割いて,矢野教授は室井さんという若い意欲的な研究者を見出した喜びと,将来の期待を熱を込めた文体で書いていて,こんなにも彼がその道の権威から称賛され期待されていることに,友人として心からうれしく誇らしく思ったものだ.

掲載した写真の2枚目,3枚目はその部分をスキャンしたもので,こちらで書くよりもはるかに雄弁に,室井さんのことを自分の学問の継承者として見出した大先輩の喜びを伝えている.ぜひ読んでみてください.

解説文1

解説文2

_ シュメールのことわざの本

さて,その後しばらく互いに音信を交わすこともなく,震災の後で心配して電話してみたけど繋がらず,そのままになっていた.ところが,たまたま先日,室井さんの本を検索してみて,彼が2冊めの本を出していることを知った.今度の本は研究書ではなく,シュメールの人々のことわざを彼が翻訳して,彼自身の解説を付けた読み物.『永久(とわ)に生きるとはーシュメール語のことわざを通してみる人間社会』と題されている.出版社は数学に関する異色な本をよく取り上げている海鳴社.

この本は楽しい.室井さんは疑問を一切残さないところまで徹底的に取り組んで仕事を仕上げる人で,前書でもその気概と自負が本にはにじみ出ているのだけど,ここでは古代のことわざに現代のさまざまな人間の風景,とりわけ自分自身の人生を絡めて,飄逸なエッセイとも言える解説を付している.

 どうです?異国の古代の人も,今の日本人も,まるで変わらない  でしょ?

と,どこかニヤッと笑って我々に差し出してくれるわけだ.しかも,彼自身が描いた挿絵までつけて.楽しませてくれる.これも触りをちょっとだけ御開帳.「やすいビールを飲ませてくれ,高い席に座らせてくれ」という古代シュメールの盛り場で勝手なことをほざく男は,現代の日本にも,韓国にも,アメリカにもロシアにもいるよね.人間性は時を経てもさっぱり変わらないものだと,室井さんはタイムマシンを開いて我々に突きつけてくれるのだ.

そんなわけで,さっき彼に電話してみたら,奥様が出られてすぐに取り次いでもらえた.12年ぶりの会話.実はちょっとよそ者からのガードが固い奥様なのだけど,「京都の小波です」に,彼が世話になっている京大の関係者とでも思われたのかもしれない.予備校は3年前に退職して研究一筋に打ち込んでいるというとのことで,ちょっとうらやましい.とはいえ,こちらは小人閑居して不善を為す輩なのだけど.「あまり売れてないんですよお」と,ちょっと愚痴っぽく言われたので,それでは宣伝させていただかなくては,と本を並べて撮影し,スキャナーで2ページだけとって紹介させていただいた.

安いビール高い席

というわけです.『バビロニアの数学』は版元品切れで中古本にはとんでもないプレミアがついていますが,シュメール語のことわざの本は2010年の初版で,まだまだ買えます.面白いのでみなさんも買ってください.


2013年02月10日 伊吹元文科相の体罰肯定論 [長年日記]

_ 自民・伊吹氏「体罰全否定したら教育できぬ」 元文科相

とりあえず転記。後でコメントする予定

"【塩入彩】伊吹文明衆院議長が9日、自民党岐阜県連が岐阜市で開いた政治塾で「体罰を全く否定しちゃって、教育なんてできない」と述べ、教育現場での体罰排除に否定的とも受け取れる見解を示した。

"参加者から「人を育てるには、子どもの時から多少のたたきは必要なのでは」と質問されて答えた。

"伊吹氏は「私もあなたの考えに近い」とし、体罰が問題化するのは「何のために体罰を加えるのかという原点がしっかりしていないから。愛情を持って加えているのか判然としない人が多すぎる」と持論を展開。「体罰を容認したと言われ、サディズムの権化のような先生が出てくると困るが、要は人間を磨くということ」などと述べた。

"体罰は学校教育法で禁じられているが、「このごろは少しそんなことをやると、父親や母親が学校へどなりこんでくる。どなりこむ父親、母親は子どもにどの程度の愛情を持っているのか」と親の姿勢を批判した。また、子どものころに受けた体罰にも触れ、「殴られた時は『こんにゃろー』と思ったかも知れないが、そんなに嫌な思いは残っていない」と語った。

"伊吹議長は2006~07年に第1次安倍内閣で文部科学相を務めた。asahi.com 2013年02月09日20時28分


2013年02月28日 確率と「つき」 [長年日記]

_ 確率と「つき」

確率・統計の名著

岩波書店から出ている薩摩順吉著『確率・統計』は理工系の数学入門コースというシリーズの1巻で,古典統計についての分かりやすい入門書になっている.数学的な説明の大事なところはきちんと書いてあって,今どきの統計の教科書によくあるハウツー本みたいなものとはひと味ちがう.

10年ちょっと前,大学で文系学生のために確率統計を教えることになった.何冊もの本を集めて読みながら自分のカリキュラムを構成した,その中でもっとも頼りになったのがこの本だ.

多変量解析やその他の現代的な統計学については触れられていないのだが,この本でしっかり勉強しておけば,もっと進んだ統計手法を学ぶ上でもよい基礎になると思う.

ちょっとあれなところ

こんなふうにべたぼめしちゃうわけだが,大体そんな書き方をするのはその後で落とす前振りというのが話しの持って行き方の常套手段なわけだね.ご期待通りここで話は転じる.ちょっとあれなところがコラムにあるのだ.

「ゲームにおける『つき』の確率」と題されたコラム,とりあえず引用してみる.

ゲームをよくやる人なら「つき」を身をもって経験したことがあるに違いない.ついているときにはおもしろいほど勝負に勝ち,ついていないときにはいくら頑張っても負ける.

このような「つき」を確率/統計の立場で説明することができる.ランダムウォークの項でのべたように,確率1/2で動き回っているとき,平均値のまわりをうろうろしているよりも,どちらかの側に片よっていることの方がよく起こるのである.たとえば,麻雀のように4人でやるゲームを考えてみる.

とあって,3回以上続けて1位になることや,3回以上続けて最下位になることは意外にひんぱんに起きているということを,著者は述べている.もちろん,これはその通り.

笑ったのはその次だ.

したがって,ゲームをする場合,勝っているときは,その調子をくずさないようにし,負けているときは,じっとこらえて負けを最小限に食い止めるような姿勢をもつことが肝要である.

ううむ,それは先生ちがうでしょう.前置きでは確率的にランダムに勝ち負けが決まっているときにでも,「つき」とか「スランプ」が起きてしまうことをお書きになっているわけで,その意味ではまったく同意.というか,確率を学ぶと,そういう「波」とか「いきおい」みたいなものが,結果論として出現することを理解できる.

博打に努力は無駄なのだ

しかしその場合,「つき」を維持する方策はないし,「スランプ」をこらえる方策はない.いくらつきまくっていても,一寸先はけっして予測できないし,いくら負け続けていても次で勝つかもしれないし負けるかもしれない.過去がどうであろうと次の一手はまっさらの賽の目バクチである.それだからこそ,「つき」や「スランプ」に見える「ゆらぎ」が発生するわけだ.

つまりは,少なくとも確率的に勝敗がきまるゲームについては,何の努力もまったく意味はない.運に翻弄されるしかないのだ.ノリノリでいこうがこらえようが,そんなことにはお構いなく運命の女神は淡々とサイコロを振ってくれているのである.

というか,薩摩先生は「調子をくずさないようにする」って,具体的には何をなさっていたか,あるいは「じっとこらえ」るって,どういうふうに振舞っておられたのか,いったいどうなのだろうか.およそギャンブルでは,負けたら元を取り戻そうとしてさらにつぎ込むという行動が,身を持ち崩す最悪のパターンなんだけどなあ.