便り

 年賀状が来た。いつもと同じように青いインクの綺麗な筆跡で。 短く認められた言葉に、安心と懐かしさが心を満たした。こちらか らの便りへの返信とはいえ、年に一度の慎ましい挨拶。しかし、送 り主が本当は誰なのか、ついに知ることのない便り。
 コーラスの練習は指揮者を半円形に囲むように立って行われてい て、僕のいたバスの位置からは、アルトのあの子の横顔がよく見え た。音楽が止んだときにその顔が少しこちらに傾き、視線が合うと、 その目だけがにこりと笑う、そんな瞬間が好きだった。だが、中学 の合唱部では部員同士に取り立てて交流もなく、互いに名前を知る ことすらなかった。だからその子の名前は、偶然に見たアルバムか ら拾ったものでしかなく、実は思い違いなのかも知れなかった。と もあれ名前を知ったからとて僕は話し掛けることもなく、偶々どこ かですれ違った時に顔で挨拶すると、向こうもはにかんだ笑顔を返 すだけだった。
 中学三年の年の暮れ、僕は思い切って賀状を出すことにした。遠 くの私立高校に既に進学が決まっていたのだ。他愛もない新年の決 意を認めた便りに、三日のうちに返事が来た。その葉書を大切な本 に挟んで、僕は高校生活を始めた。
 高校三年の秋、僕らは合唱コンクールに男声合唱の部で出場した。 出演を終え、混声合唱の部を聴いていると、故郷の県立高校が登場 した。シューマンの流浪の民だ。ソプラノからアルトへ歌い継がれ る短いソロのパッセージ。声の主をみると、あの子だった。未だ耳 にした事がなかったその声は思いがけず豊かなアルトの響きを持っ ていて、僕はなぜかどぎまぎした。
 コンクールを終え急いで会場を出ると、会堂の庭には銀杏の葉が 舞っていた。僕は待った。
 午後の日差しに散る銀杏は感傷的な思いを誘っていた。不意に建 物の蔭からあの子が一人で現れると、僕を見て立ち止まった。まる で昨日も会ったかのように彼女は微笑んだ。モスグリーンのスカー トの裾が揺れた。並木の一本の銀杏に僕、そして隣の一本にあの子。 それぞれ樹を背にして。名を聞きたかった。が、溢れ出た思いが言 葉を押しとどめた。
「私よ。今あなたの前にいるこれが私」
「そうだよね。いつもきれいな字で便りをくれたのは君だよね」
沈黙の会話が交わされ、長い時が一瞬に通り過ぎた。風がざーっ と樹々を渡ってきて、梢が落ち葉を散らしながらざわめいた。あの 子の口許が動きかけた。と、誰かの呼ぶ声。ちらりとそちらを見る と、あの子は僕の方を振り向いてにこりと笑い、そしてスカートの 裾を翻して駈けていった。
1996.8