歯ブラシ

 勝手口を音がしないようにそっと開けて入ると、僕は三和土の隅の流し
の方へ寄った。右手はポケットに深く突っ込んだままだ。手押しポンプの
奥にある釘を打った木の板に、家族の歯ブラシが八本、上下二段になって
ずらりと並んでいる。上の真ん中のはとうちゃんの、右端のはばあちゃん
の、そして左の端に下がっているちびてしまった歯ブラシがかあちゃんの
だ。
 僕はあたりを見回して人がいないのを確かめてから、買ってきたばかり
の真新しい歯ブラシをポケットから出して、かあちゃんのやつとすばやく
取り替えた。そしてわざと大きな音で戸を開け閉てしてから、「ばあちゃ
ん、ただいま!」と畳に上がった。

 自分の家(うち)がどうやらかなり貧しいらしいと思い始めたのは、半
年ほど前のことだった。とうちゃんは離れの木工場で朝から晩まで働きづ
めだし、かあちゃんとばあちゃんは客にいつも頭を下げてばかり。それを
見てたから、小遣いだって木工場の仕事を手伝ったら一日十円と、にいち
ゃんと僕とでかあちゃんに申し入れしたのだった。
 だからある朝、かあちゃんのみごとにちびてしまった歯ブラシに気がつ
いて以来、気になって仕方がなかった。自分のものは買わないでがまんし
てるんだ、かあちゃんは --- と思うとせつない気持ちになってしまった。
で、今日思い立って店から新品の歯ブラシを買ってきて、こっそり取り替
えてしまうことにしたのだった。

 あくる朝、僕はかあちゃんが起き出すのを聞き逃さなかった。蒲団にく
るまったまま、三和土の方へ降りていく足音に固唾を呑んで聞き耳を立て
た。うれしいかなあ、かあちゃん。よろこんでくれたらいいなあ。だまっ
て使ってくれればそれでもいいんだけど・・・・・・ところが次の瞬間、
僕は耳を疑った。

「あれぇ、誰こんなことしたの?あたしの歯ブラシがなくなってる。」

「歯ブラシがどうしたって?」

ばあちゃんの声だ。

「あたしの歯ブラシ、やっとちょうどいいくらいにすり減ってきたとこだ
ったんだよ。ここんとこ歯茎がしみて痛いもんだからねえ、・・・・・」

僕はその朝、お腹が痛いからと嘘をついて、朝ご飯を食べずに学校へ行っ
た。

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「あの時はほんとにがっかりしたなあ。せっかく小遣いを貯めて新しい歯
ブラシを買ってやったのに・・・」

「アハハハ、そんなことあったかねえ。あたしゃなんにも覚えてないよ。」

母は、三十年も前のことをうらめしげにいう私を前に、いまや一本の歯も
なくなった口をあけて楽しそうに笑うのだ。



1995.6