江頭先生の思い出

 今年のゴールデンウィークに入ったばかりの4月29日の昼、九州からの長距
離電話が仙台の私の家に突然入りました。そして何年も会っていなかった旧友の
成田博実君の声で、江頭徳造先生の訃報が伝えられました。私は呆然としてしま
い、成田君のその後の言葉にまともに返事することも出来ませんでした。
 今年こそは宮崎に帰って先生や友人達と会いたいと正月のたびに思いつつ、結
局は果たせなくなってしまった楽しい帰郷の夢が脳裏をよぎりました。4月始め
の福岡旅行のときにも、もう2日ほど足を延ばして宮崎を訪れようと思ったもの
の、多忙にかまけて日帰りで戻ってしまった、そのことが悔やまれました。
 ずっと前、先生の還暦祝いを同級生たちがやったときにも出席できませんでし
たし、先生とともに私たちを可愛がってくださった奥さんが昨年急逝されたとき、
遠い空から電報を打つことしかできず、悲しい思いを噛みしめておりました。

 いまさらいくら思い返しても無念としか表現できませんが、せめて恩師と、恩
師が愛してこられた母校への永年の感謝を伝えることで追悼の言葉にでもなれば
と、思い出を記すことにします。

 私が日向学院高校に入学したのは1966年の春のことでした。北諸県郡の山奥に
生まれそだち、中学は都城でしたが、ともかくも何も知らないくせに生意気な少
年でした。県内や九州の各地から集まった十五の春の新しいクラスは、私と負け
ず劣らない田舎猿のような連中ばかりだったことを思い出します。
 カトリック文化の香りを漂わせた日向学院の雰囲気や、日本人や外国人の神父
が校庭をゆっくり歩いているさまは、その田舎猿にとってこれまで接したことの
ない文化的な環境として強烈に印象に残りました。そしてどの生徒にも先生にも、
自分にとって初めての出会いの場であった新学期の教室、その時代のことを思い
返すと尽きないものがありますが、ここは先を急ぐことにします。

 初めて江頭先生の化学の授業を聞いたのは、おそらく一年生の三学期ころでし
ょうか、正確には思い出せませんが、非常に丁寧で分かりやすい話しぶりでした。
先生にモルの概念を教わったときに感じた、この物質の世界の見方、おおげさに
いえば世界観が広がる感覚とでもいったものは、今でもあざやかに思い浮かべる
ことができます。そして「合成」、「生成物」を「ごうしぇい」、「しぇいしぇ
いぶつ」と西九州のなまりで語られる、懐かしい口調も。

 その後、先生の授業は二年、三年へ進級した後も行われたわけですが、授業の
たびにガリ版で刷られた手書きのプリントが渡され、その一枚を噛み砕けば過不
足なくきちんと理解できるように仕組まれていました。その後沢山の講義を大学
で聞きましたし、また自分も教える立場になって大勢の学生を前に講義すること
にもなりましたが、江頭先生のようなきちんとした授業には出会ったことはない
ように思います。ましてや自分が教えるときなどは、恥ずかしながらいつも冷や
汗をかいている始末です。
 江頭先生の授業は、生徒たちへの心からの愛情に支えられていましたし、その
ことはどの生徒でも分かっていました。そして、子供たちの教育にいつでも心を
砕き、克明に記録を付けたり、原紙に鉄筆を走らせておられたその勤勉さは、不
肖の弟子の私などには、いまだとうてい真似できないものです。


 日向学院を卒業して何年かたった秋、私はたまたま実家の用事で帰省しました。
理学部の大学院生時代のことです。ある日の午後、暇をみて母校を訪ね、先生の
部屋を覗きました。顔を合せると先生はとてもうれしそうな顔をされ、次の始業
ベルが鳴ると、受け持ちのクラスへ私を連れていかれました。国語かなにかの授
業の予定だったのですが、急遽化学の授業と振り替えてもらったということです。
そして、生徒達に私を紹介されました。

「小波先生は君達のずっと先輩で、私なんかよりもずっと化学を勉強され、今は
第一線の専門家です。今日の授業では、君たちにはちょっと難しいかも知れませ
んが、小波先生に最新の化学の話をしてもらいます。」

 恩師に先生と紹介されていささかおかしな気持ちになったうえ、なんの用意も
なかった私は、とりあえず三十分あまりの話を、思い付くままにつかえつかえし
ながら終えました。そのとき何をしゃべったかは忘れましたが、いま当時の自分
のレベルを思い返すと、そうとうひどいことを口走ったに違いありません。先生
はそんな私をにこにこして見ておられました。
 放課後になって、化学準備室に数人の生徒が集まりました。きっと私と同じよ
うに先生の部屋にいつも邪魔をしに行っていた子供たちでしょう。先生は棚から
分厚いファイルを出してこられました。みんなの前に広げられたのは、なんと私
が在籍していた時代の試験の問題用紙とその採点結果だったのです。

「ほら、君たちの先輩はこんなにがんばったんだぞ!」

と、ページをめくっていかれる先生の姿に、私は胸が熱くなりました。卒業後八
年もたっていたのです。


 二年生の夏前ころから、特に理科クラブとか化学クラブとかいうのではなく、
放課後には何人かの生徒が理科室に集まるようになりました。そして化学や物理
の実験やら天文の観測などを、あまりまじめな計画は持たずに、思い思いにみな
でやるようになりました。ロケットを作ろうといっては、推進薬に使うための火
薬 ---  いまでも覚えていますが、粉末の亜鉛と硫黄の混合物であるとか、砂糖
と過塩素酸カリとか --- を調合してみたり、ブラスバンドのおんぼろフルート
をきれいにしてやろうなどといってニッケルメッキをやったものの、かえって汚
くしてしまい、おまけに思い切り感電してしまったこととか、やりたい放題とは
まさにこのことでした。
 江頭先生は隣の準備室におられるのが常でしたが、いつでも快く無鉄砲な生徒
たちの実験に場所を貸してくださり、必要な試薬をわざわざ購入したり、電気の
実験では物理の先生に交渉してくださったりと、いやな顔ひとつせずに付き合っ
てくださいました。

 ある午後、私は例によって化学実験室にこもり、自分の立てたあるプランに添
って実験を行なっていました。実験では正確に測定した金属ナトリウムが必要だ
ったので、ジエチルエーテルにナトリウムの塊を入れておき、ナイフで切りとっ
てすばやく重量を測定するというやり方が、その時に考えついた取っておきのア
イディアでした。
 ところが、後始末でとんでもない間違いをやってしまいました。ナトリウムの
切り屑の入ったエーテルを流しに捨ててしまったのです。数分後、ボンという音
とともに流しに炎が上がりました。ナトリウムが水と反応して発火し、エーテル
が燃え出したのです。幸い炎のまわりには可燃物がありませんでしたし、エーテ
ルの量も少なかったことから、そのまま燃え尽きるのを待つことにしました。そ
の時、江頭先生が隣の準備室から血相を変えて飛んできました。
 私はどんな雷が落ちても仕方がないと観念して、事態を説明しました。ちょっ
と青ざめた顔の先生は、説明を聞くと、

「いい勉強になったな。準備室の流しの蓋が天井にぶつかって割れたぞ。」

と、ただそれだけ言われました。

 私にとってこの時の経験はきわめて強烈で、それまでどちらにするかを迷って
いた物理と化学から、化学を進路に選ぶことになった最大のきっかけになったよ
うに思います。この後にもいろいろと危ないことを友人たちとやらかしましたが、
先生はいつでも生徒達の危なっかしい試みを禁止することなく、側面から支えて
くださいました。

 後になって考えてみますと、万一生徒が事故で怪我でもしようものならその責
任は当然自分の肩にかかってくることを、先生が承知しておられないわけもなく、
実際にはそうとうに腹をくくって生徒達の自由な活動を援護しておられたのは、
間違いありません。自己保身とことなかれ主義、はなはだしいときには指導の誤
りの責任を学生になすりつける教師の姿を、その後の自分の住んできた世界にも
まま見受けます。現在のこの時代は、気骨という言葉さえ死語になりつつあるよ
うな教育の世界に、残念ながらなってしまった感がありますが、江頭先生の穏や
かで漂々とした風貌の裏には、生徒の主体性を守る上での厳しい覚悟が潜んでい
たことに、何年もたってから気が付いたのでした。


 三年生になって、私たちのクラスの担任に江頭先生が就かれました。私は数人
の同級生と一緒に学校のすぐわきの篤学寮で生活するようになり、それから二、
三分のところにある先生のお宅にしょっちゅうお邪魔していました。先生はいつ
も袖のすりきれた浴衣を着たままで卓袱台にむかって座っておられ、かわいい奥
さんがいつもにこにこして私たちを迎えてくれました。

「このひとったら、どうしてもこの浴衣を捨てないっていうのよ。」

と、奥さんは先生の着物のことをいつも半分からかいながらしゃべっておられま
した。お子さんがおられなかったためか、みなが息子のように迎えられたことを
思い出します。そして、普通はたいてい十時頃まで雑談をして帰りました。どう
いうわけか眠ってしまって、泊まっていくことになったやつもいましたし、先生
に連れられて街になにかを食べに行ったりしたこともあります。

 あるとき、その日は高校の陸上部でも屈強で鳴らす林君もいっしょにいたので
すが、

「腕相撲しないか?」

と先生が言われました。先生の腕は一見きゃしゃで、ほっそりした方でしたから
ちょっと驚きましたが、ところがやってみたら思いもかけない力持ちで、私など
はもちろん軽くひねられ、林君も散々がんばったものの歯が立ちませんでした。
みんなに勝ったときの先生のお顔はとてもうれしそうでした。わきで奥さんも、
まるで子供の遊びに付き合う母親のようにそれを見ておられました。

 しかしそうはいっても、訪れた私たちの馬鹿な騒ぎにつきあっておられるとき
も、先生はたいてい卓袱台の上に参考書とガリ版を置いて、授業で配るためのプ
リントを作っておられました。コップの焼酎を美味しそうに飲んでは、カリカリ
と音を立てて原紙に鉄筆を走らせ、たまには

「オイ、小波。お前これ解けるか?」

と練習問題を与えられたりもしました。思えば本当によい教育を受けたものです。

 次々と思い出は尽きることがなく、書き連ねれば書きつらねるほどあれもこれ
もと懐かしいことばかりが浮かんできます。もちろん自分ひとりだけの先生であ
ったわけはなく、数え切れないほどの生徒たちひとりひとりに江頭先生が与えて
くださったものの重みと厚みは想像もできません。私もその中の一人として、胸
の中に生き続ける先生に教えていただきながら、少しでも恥ずかしくないように
生きていたいと思っています。江頭先生、そして奥さん、ながい間ほんとうにあ
りがとうございました。

1994.5.10
この文章は、私の高校時代の恩師の追悼のために、母校の文集に寄稿したものである。