おおきにありがとう


去年のいつだったか,天気のいい土曜の午後に車の運転をしながらラジ オのスイッチを入れたところ,番組で 「近ごろ気になることば」なる 特集を組んでいたらしく,NHKのアナウンサーが ことばについて視聴者のファクスなどを紹介しながらしゃべっておりました。 よくある「今どきの若者ことばはけしからん」という流れになってしまうのですね,これ。爺婆やら, 何でも文句付けたがる(その実,お上には楯突かない)オヤジとか, その手のが「ら抜きはけしからん」とか「語尾をへんな疑問形で 尻上げするのはやめろ」とか,まあそういうたぐいのであります。 私は仕事柄若者に接することが多いので,こういうのはニヤニヤ笑って 聞き流すのですが,読み上げられたファクスでちょっとむかついたのが ありました。録音してたわけではないので適当に雰囲気だけ再現して みましょう。

わたくしは中学生のころからタクシーをよく利用しておりますが, いまでもときどきとても不愉快に思うことがございます。それは タクシーに乗ったときに,運転手が 「どこいくの?」と話しかけたり, お金を渡して降りるときに「ありがとう」とぶっきらぼうに いうことがよくあるということです。少女時代にはもっと なれなれしい口調で「おじょうちゃん,どこまで?」などと訊かれることが たびたびでございました。いくら年下とはいえ,わたしは客として タクシーに乗っているのですから,礼儀正しいことば遣いで 「どこまでいらっしゃいますか?」とか,「どうもありがとうございました」と客にいうのが本当ではないでしょうか。

この元?お嬢さまがガキの分際でタクシーに乗っていたと聞いただけで, 私のような貧乏人の子だくさんの 小倅にはちょっとむかつくところがあるわけなんですが, そういうひがみやっかみ はみずからのいやしい心性に発するものですからさておいて, いったいこの貴婦人(たぶん)の「ため口」に対する攻撃的な 態度は何なんでしょうか。そうそう「ため口」というのは,同じ年齢や階層の 人の間で使う親しげな表現のことです。 客である自分に対してため口をきく運転手をけしからんというこのお方の 意識って,どっかがふんぞりかえってますよね。

日本社会では,商店の中での売り子と客の関係,ビジネスにおける営業と クライアントとの関係,こういうところでは常に上下関係が,あるいは 端的にいえば主従に擬せられる関係が作られます。かつて 演歌歌手南春夫がセールスコピーで使っていた名文句

お客様は神様です
もそうですね。卑下して相手を持ち上げる,持ち上げられた側は 傲慢を許され,無理を申し付けてもよろしいという関係。もちろん 従者のほうはひたすらへりくだった言葉遣いでご無理ごもっともと 唱えるわけです。そこに作られるのは,つかの間の主従関係の中で 「下の者」にいばる快感かもしれません。わたしはこれが大嫌い。 店員に対して客がいばっているなんてのは最低ですよね。--- って, これに同意いただけない方もいらっしゃるわけですが。

さて,関西でタクシーに乗るのは楽しい。まず運転手がよくしゃべります。 お客の話につきあってあれこれとしゃべってくれるので, 運転手と自分だけの気詰まりな空気ができません。そして何よりいいのは, 運転手の口調が「らくぅな」感じなのです。

そら景気はどうにもあきまへんわ。 バブルの頃は四条から乗らはったお客さんが,大阪の梅田まで行ってくれ, ゆうようなんがなんぼでもありましたけどな,この節は京都駅まで 三人さんが割り勘で乗らはったりするんですわ。 話聞いとったらその三人さんはタクシー乗り場に偶然おっただけみたい なんで,そんなやられたら私らは干上がってしまいますがな。
などと,ぼやき漫才を聞きながら乗れるわけですから,寄席芸の好きな 当方にとってはタクシー代が木戸銭込みみたいなものです。 「ほお,さようですかぁ」とか「えらいこってすなぁ」とか, 漫才の相方を務めるのも悪くありません。つまりは,近所のおっちゃんとの 関係がそこに成立しているとも言えそうです。

そして運賃を払ってタクシーから降りるときに運転手が掛けてくることばが「ありがとう!」。あるいは「おおきに」,丁寧なのは「おおきに,ありがとう!」です。これはうれしい。 おおげさな言い方をすると,他人同士が「ありがとう」と言えることは, 日本語の社会生活の「とげ」をひとつ抜くことができるのです。

軽いあいさつというのは,本来社会生活にはなくてならないものです。 外国を旅したことがある人なら,さまざまの場面で「サンキュー!」だの, 「ビッテ!」だの「シェシェ!」だのという軽い感謝のことばの やり取りを経験しているでしょう。この軽さはとても重要で, 行きずりに道を譲られたときや,ちょっとした心遣いに対して, なんの気後れも構えもなく発することができるわけです。 親しさを作り出し,人間関係の緊張をほぐす上で,これが果たす役割は 大きいと思いませんか?それにひきかえ, たどたどしい日本語をかろうじて操っている 外国の方が,「ドウモ,アリガトゴザイマス」とぎこちなくやっているのを 見ると,いかにも大変そうです。

そんなことを外国での一人暮らしをしたときに痛感して以来, 日本の標準語の感謝のあいさつである「ありがとうございます」という フォーマルでへりくだった表現の不便さに目が行くようになりました。 とにかく「ありがとうございます」は,空気を硬くするものがあるので, 使えないのです。だから,「どうも」が使われる。しばしば「どうも」という 表現に対して,いったいこれは何なんだという苦言を呈する人がいますが, じゃあ「ありがとうございます」はどこでも気楽に使えるのか,そう 考えてみれば「どうも」が発せられる必然は大ありなのです。

そこで関西です。こちらの「ありがとう」は際立ったアクセントで 発せられます。「と」に非常に大きな強調があり,

「ありが ぅ」
という感じです。これは東京アクセントにはないもので, 最後の「とぅ」のところで強調点を押し込まれるよう な響きがします。とはいえ,押し付けがましいとかきついとかいう 感じはしません。人間が間近に寄ってきて肩でも叩くような 感じなのです。 これが関西の「ありがとう」です。ていねいな人はさらに, 「おおきに」も使います。これも「き」にアクセントがあるところが 「ありがとう」と共通してます。

こんなふうに「ありがとう」の挨拶が 使われるということは,関西での言語生活を自由にする効果絶大です。 他人どうしが近所の人みたいに話せるわけですし,初対面の人との 会話でも構えなくてすみます。関西の大学生はしばしば「東京はなんか 怖い。ことばがとげとげしてる感じがしてなあ」といったことを 口にしますが,誰にでも「ありがとう」の世界からみたらそれも 無理はありません。

もともとは東京ことばだったものが標準語とされたのは, ひとえに明治以来の首都である という事情によるものですが,その成立の過程を考え てみると,標準語というものが言語としてまったくこなれていな いものであることは あきらかです。考えてみれば,「です」と「ます」の体系的矛盾ですら 標準語の中で未解決なのです。

歴史をたどってみると,母体となった江戸ことばから,明治期に出現した 近代的社会関係を反映させる必要性によって,さまざまの 要素を取り込んで標準語が形成されたわけです。それも 武家社会の枠組みに近代を取り込もうとしてきた。「僕」とか 「君」などというものそう。 江戸の遊郭に来た地方の女たちの共通語であった 「でありんす」から「でーす」「です」となってきて, 明治の「です」ができあがったといういきさつもあるらしい。 これらのことばは, 見も知らない他人が職業社会で合流するときの 「きまり」を支える仕掛けとして機能することになりました。 つまりはよそ行きのことばです。堅苦しくならないわけがない。じっさい, このパラグラフに入った途端に肩が凝りそうな話になってしまいました。

翻って京都と大阪は江戸時代以前からの商工業の町です。京都を 公家の支配する都と思う人がいますが,それは大まちがい。むしろ 大阪以上に手工業の発達した職人の町なのです。 そして摂津堺の商人の自治の歴史と京都町衆の歴史は, やわらかくこなれた交渉の道具としてのことばを発達させました。 そのために明治以降の近代化に伴うことばの変容が 少なくてすんでいるわけです。関西弁は古風というけれど,もともと 人間関係の表現においてこなれていただけのことです。

というわけで,「ありがとう!」が気楽に交わされる京都,大阪の 街は,人と人の間につめたいとげが刺さってなくて,疲れないですむ。 関西のどこかまったり,はんなりした風情はそこにあるのでしょう。

2004 Jan. 27