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【小波の京女日記】


2013年09月11日 1971年9月11日,チリ・クーデター [長年日記]

_ 1971年9月11日,チリ・クーデター

40年前の今日始まったこと,そして日本の報道

1973年9月11日,多分日本時間では12日になっていただろうが,チリのアジェンデ政権がクーデターによって転覆させられたニュースに,ぼくは布団から跳ね起きた.そのまま立ち尽くして,アメリカ帝国主義ということばを何度も口につぶやき続けた.まだ大学生のときだ。

日本でのほとんどの報道は,NHKも含めて,チリの過激な左翼政権が国民の不満を背景にした軍部によって倒されたという論調だった.が,選挙によって民主的に樹立された政権は,それが国民を武力で抑圧する事態にでもなっていない限り,クーデターや武力で倒されることなどあってはならない.その一点で,これはまぎれもなく人類の歴史を裏切る事件であることが,明らかだった.背景もどんな理屈も,民主主義の大原則の前には何の理由にもならない.

チリの惨劇とアメリカ帝国主義

それから何年もの間,チリではすさまじい拷問,虐殺が行われ,サッカー場が監獄となり,抵抗の歌を歌ったビクトル・ハラはギターを持てないように両手の手首を銃で撃たれたという話も伝わってきた.これは後に作られた伝説であるとされ,事実は歌っているところを兵士に連行されてただちに銃殺されたらしいが,もちろん残酷さに何のちがいもない.

そして,チリ人の財産である農場や鉱山が再びアメリカと国際資本の手に「回収」されていったプロセスを,ぼくらは徐々に知ることになった.クーデターを糸引きしたのがアメリカのCIAであり,ニクソン大統領とキッシンジャー博士であったことも.

日本での報道はまた,アジェンデ政権の国有化路線によって猛烈なインフレが起きて国民が困窮していたのが原因とも言っていた.が,それも豊富な銅資源の横取りを阻止された国際資本が起こした経済クーデターが先行したことが,後に明らかになった.インフレも仕組まれていたのだ.そして凄まじい軍政が続き,何万人もの人が投獄され,殺された.国外に逃れてチリで起きた地獄を伝えてあるく人々にも,当時のぼくらは直接に会うことができた.

そうそう,戒厳令下のチリに潜入したメキシコの作家ガルシア・マルケスの手記も岩波新書で読んだし,コスタ・ガブラスの映画「サンチャゴに雨が降る」もあった.フォルクローレが日本で大流行したきっかけの一つが,亡命してチリのフォルクロールを歌い歩いたグループ,キラパジュンやインティ・イリマニなどの活動だったということには,ずいぶんと複雑な思いに駆られてしまうのだが.

あの惨劇によって開かれた世界

そうしてこの40年を通して判明したことは,あの事件はまさにミルトン・フリードマンが主導する新自由主義の幕を開けた,今日の世界への扉だったことだ.つまり,あれは世界を根本的に国際資本のために改造するための,世界史の転換点であったということになる.

その世界史的な意味付けは,最近読んだ中山智香子さんの『経済ジェノサイド――フリードマンと世界経済の半世紀』(平凡社新書)で知ることになった.この本によって,40年前の自分が現在へとつながったというわけだ. この本は,20世紀後半の世界史を知る上で必読ともいっていいと思う.

アジェンデ最後の演説

さて,この40年を思い起こしながら,今残されているアジェンデ大統領の最後のラジオ放送の声を聞くことにしよう. アジェンデ最後の演説(日本語字幕付)

 わが祖国の労働者たちよ  私はチリと,その運命を信じています  私に続く人々が,  裏切りの支配するこの灰色で苦い時代を  乗り越えていくでしょう  おそかれ早かれ,  よりよい時代を築くために  人々が自由に歩くポプラ並木が  また開かれるでしょう

  66歳,壮絶な死を前にして,こんなにも力あふれる詩のようなことばを国民に語る大統領がいた.そして軍隊の総攻撃の中で彼は死んだ.

チリはふたたび立ち上がった

もちろん,話はここで終わっていけない.終わらなかった.チリは苦難の時を経てふたたび民主主義を取り戻し,ピノチェトは断罪された.チリの人々は今日も,ポプラ並木の下を家族や友人と語らいながら歩くことだろう.

ぼくらの世界も,そろそろ変わらなければいけない.