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【小波の京女日記】


2013年10月17日 「わかってからでは遅い」は正しい不安か

_ 「わかってからでは遅い!」は正しい不安か

福島民報の記事から

福島民報に がんリスク測定時期尚早 国際研究機関部長が講演 という記事が出ている。

国際がん研究機関(IARC、本部・フランス)の環境と放射線部門部長でドイツ人の医師ヨアキム・シュッツ氏による講演会は16日、福島市の県医師会館で開かれ、放射線と甲状腺がんとの因果関係などについて語った。  シュッツ氏は放射線と甲状腺がんとの関係について「放射線ががんのリスク要因であることは確立されている」と述べた。一方で「(東京電力福島第一原発)事故後2年半の現在、事故と関連したがんのリスクを測定するには時期尚早」とした。

「がんのリスクを測定するには時期尚早」というのはわかりにくい表現だが,発生するガンが放射線の影響によって増加していると判断できる状態はないと言い換えてもいいだろう。

この記事を見て,「わかるのが何年も先ということだが,その時になってわかってからでは,もう遅すぎるだろう!」と感想をつぶやいた人がいた。他にも,たぶんいろいろなところで,「わかってからでは遅すぎる!」という叫びやつぶやきがもれたにちがいない。

しかしそうなのだろうか?ちょっと考えてみよう。

「わかってからでは遅い」はどういう意味だろうか?

たとえば,治療せずに放置していたら死ぬ可能性が高い病気に罹っていたとして,その発見が遅れてしまった場合,人は「わかってからでは遅すぎた!」と叫ぶにちがいない。何をするにも手遅れになってしまった。もっと早く判明していれば助かっただろうということだ。

あるいは,地球に近づく小惑星があるのにまだ発見していない。仮にぶつかったとしたら人類は絶滅しかねないサイズだとしよう。 もしも,それが見つかった時には,対策をとれるだけの距離と残り時間の限度を過ぎてしまっていたとしよう。世界はまさに「わかってからでは遅すぎた!」という阿鼻叫喚地獄になってしまうだろう。

つまり,「わかってからでは遅い」は,それより前にわかっていれば危機を回避できたはずなのに,もう無理という状況を想定した言葉だ。

それでは,放射線によるガン発生について「分かってからでは遅い」と考えた人は,何を想定しているのだろうか。それは病気や隕石への対応について考えたことと同じなのだろうか。そのことを検討してみよう。

まずポアソン分布の話を少し

この項はちょっと長いので,結論を急ぐ人は飛ばしてください。

感染症(伝染病)ではない病気の発生件数は,一般にポアソン分布と呼ばれる確率分布に従う。どういうことかというと,ある平均値があり,その前後にちょっと多かったり少なかったりするという感じで発生する。その散らばりを記述するのに使われる分布がポアソン分布で,フランスの数学者ポアソンによって導かれた。

今,サイコロを60回投げたとすると,1の目は平均して10回出る。これは確率でいう期待値というやつだ。しかしいつも10回出るわけではなく,8とか9とか,あるいは11とか12あたりに散らばり,たまにはもっと外れたりする。その「散らばり具合」を,ポアソン分布は教えてくれる。

画像の説明

ためしにサイコロを60回振って,何回 1 が出たかを数えるという操作を 50000 回ほどやってみたとしよう。もちろんコンピュータを使わないとこんなことはできないが, その結果をまとめると,右の図のヒストグラム(柱状グラフ)のようになる。 平均値の10をピークとして,出る回数が前後に散らばっているようすがわかる。ちなみに,緑色のカーブは理論的に予想される分布の形だ。

ポアソン分布の性質としては,次のことがわかっている。

  • 分布の標準偏差は平均値の平方根になる。
  • 平均値が大きい場合にはポアソン分布は正規分布とみなせる。

上のサイコロの場合だったら,$\sqrt{10} = 3.2$ が標準偏差だ。図を見ても,$10\pm3$ ぐらいの範囲にかなりの部分が収まっていることがわかる。

「平均値が多い場合」というのはちょっと漠然とした言い方だけど,大体50もあれば大きいといってもよい(この目安は,必要とする精度によって変化する)。 ということは,平均値が100であれば標準偏差は10となり,かつ正規分布とみなしてよいということになる。1000なら標準偏差は 32 程度だ。

このことを念頭に置いて,次の話に移ろう。

平常値より10%多いデータは有意に増加しているか

たとえば甲状腺がんが従来の平常値の平均で一定期間に 100 発生してきたようなケースを考えよう。この地域で放射線量が増加した。その後,実際の発生件数が10%増加して 110 になったとする。この増加は有意なものだろうか?つまり,放射線の影響で増加したのだと言えるだろうか?

上で計算したように,平常値の平均値が 100 であったとすると, 発生回数の標準偏差σは 10になる。ということは,観測された回数はちょうど σだけ増えている。一方,正規分布では,$\pm\sigma$の区間内にデータが入る確率は ほぼ 0.68 である。つまり$+1\sigma$ 程度のずれは有意ではない。これくらい のずれはありふれているのだ。

ということは,この増加が放射線の影響によるものなのか,平常値のゆらぎによ るものは判定できない。統計的に有意でないというのはそういうことである。

さて,集計する期間をその10倍にとると,症例数の期待値は1000になる。 このときの$\sigma$は32だ。 すると1000の10%増となる値 1100 は,平常値よりもほぼ3σずれていることに なる。これほどのズレは1000回に1回しか起きない。ということは, 平常値のゆらぎによる可能性はきわめて小さく,なんらかの 外的要因,おそらく放射線の効果が効いて増加したのだろうというふうに判断できるわけだ。

つまり,「10%増加した」というデータは母数が多ければ有意だし,そうでなけ れば有意ではない。判定に時間が必要というのはそういう意味であって,病気の発見に時間がかかって治療が手遅れになるという意味ではない。

とはいえ,現場にい合わせている人にとっては,とりあえず 「放射線の影響があるかもしれないという前提」を予防の対策として持っておかないといけない。まさに,その事態に備えるために検診があるわけなので,しっかり利用すべきだということはまちがいない。それは同時に,統計的なデータを早く確実なものにする役にも立つ。

「わかってからでは遅い」の意味

「分かってからでは遅い」という言葉は,日常的によく使われている。 その意味,つまり何が不安の内容なのかということは,考えておかないといけない。

胃の検診を例にとってみよう。この場合「分かってからでは遅い」というのは,ガンが進行してしまってから発見するのでは遅すぎるという意味だ。それを避けるには,なるべく検査の頻度を多くして,発生したがんが早期発見されるようにすることが必要だ。

では,甲状腺ガンに放射線が影響していることが確実であることが分かる(かどうか予測できないが)のが仮に20年後だったとしよう。それはガン死を増やすことになるのだろうか?考えどころはそこだ。

放射線の影響の確定に時間がかかっているのはよいことだ

実は,判明するのが遅ければ遅いほどよい。たくさんの症例が集まらなければならないほどに,影響が微かなものだったということになるわけだから。その意味では,現時点でまだ影響が有意にあるということになっていないのは,よいことなのだ。

それでは「分かってからでは遅い」という世間的な意味で考えるとしたら,何をおそれなければならないだろうか?

当然,ガンが早期発見できなくて手遅れになることを恐れるべきだ。それはしかし,疫学的に影響が有意であることが確定することが遅いということとは,まったく別のことなのだ。

子どもが甲状腺がんにもしも罹ったとして,手遅れになるというのは,要するに発症から発見までに時間がかかるという意味だ。 それを避けるのは検診をまめにやるということ以外の何もない。肝心のそのことを怠れば,字義通りに「分かってからでは遅かった」ということになってしまうだろう。

繰り返しになるが,「分かってからでは遅い」の意味は,放射線の影響が疫学的に確定するのに時間がかかるということとは,まったく意味がことなるということを知っておかないといけない。